一日一話

光輝く日々よ!それが過ぎ去ったことを嘆くのではなく、それがかつてあったことを笑おうではないか ヴィクトール フランクル

国際教育里親の光と陰

シスターF と初めて出会ったのはもう40年も前のことであった

小柄で肉付きの良い50代の女性であった。カトリックのシスターということであったがシスターのよく着るような服は着ておらず普通の洋服を着ていた

東京からこの山国の私達の共通の友人の家に訪ねてきた時そこでばったり会ったのである

そのシスターに初めて挨拶した時に彼女が私に言った言葉は

『あなたのような弱い体をしてちゃ神様の役に立たないのよ』

という言葉だった。

初対面の人間にこういう事を言う人は滅多にいないので、びっくりしたのであるがその時はこういう人と付き合うと、どういう目にあうのかということは考えることもできなかった。

こういう私の鈍感さが私の人生の失敗の原因でもある。

そして次に彼女の口から出てきた言葉

プロテスタントの人は可哀想ね。御聖体に預かれないから天国に行けないんだから』

という言葉であった。

このシスターはカトリックの神父から受け取るパンとぶどう酒を口に入れない人間は地獄に行くと確信しているのであった。

 それまであったカトリックの神父やシスターでそんなことを言った人間はいなかったのでこれもまたびっくりした。

またもう一つびっくりしたことはこのシスターは栄養食品を販売して生計を立てているということで南米の植物から作った強壮剤ということで一瓶で1万円もしたが口が達者なので会う人会う人に販売していた。

 普通はシスター はどこかの修道会に属していて、そこで生活は保障されていると思っていたのだが、このシスターは修道会を飛び出して自分一人で新しい修道会を作って、どうも自給自足というようであった。しかしその新しい修道会はローマ法皇から認定されていると話していた。

それは嘘ではなかったが珍しいことなのだろう。

それはともかくとして、この不思議な出会いから私はそれから1年間このシスターが立ち上げたインドやバングラデシュの貧しい子どもたちに教育支援をすると言うNPOの教育里親活動での失敗の尻拭いをするためにNPOの無給の事務局長を任じられインドやバングラデシュを訪ねたり裁判沙汰の仲裁をするはめとなった。

それはまた次回に。

 

 

 

 

 

 

インテリホームレスの宮下さん第二話

 

【第二話 オレは乞食じゃない!!】

 

ある寒い冬の日のこと、

その日は珍しく夜ではなく昼に宮下さんがふらっと訪ねてきました。おそらく図書館が閉館の日だったんだろうと思います。

この寒い時期は持てる服全てを着て現れました。おそらく10枚以上の服を重ね着していたと思います。雪だるまのように膨らんだ感じです。

 その頃は付き合いもだいぶ長くなっていたので、私は喜んでもらえると思って

 

『宮下さん。このところ寒い日が続くから、このジャンパーあげるよ』

 

と着なくなった濃い緑色の厚手のジャンバーをあげようとすると、それまで一度も怒ったことが無い温厚で笑顔の宮下さんが大声で

 

『俺は乞食じゃねえ! そんなものいらねぇ』

と怒鳴り声をあげたのでびっくりしました。それは20年間に及ぶ宮下さんとの付き合いの中で最初で最後の怒鳴り声でした。

 その怒鳴り声を聞いて私は宮下さんが私のところを訪ねてくるのは対等な人として付き合ってくれる人が欲しいのであって憐れみの対象にはなりたくないという意志の現れと感じました。つまり対等な関係です。

ここで話の途中ですが近所の人に聞いた宮下さんの生い立ちを書いておきたいと思います。

『宮下さんは私の住む山国の小さな町で生まれ、中学を卒業した昭和30年代に集団就職で東京の下町の工場に勤めたが長く続かず、その後、山谷で日雇い労働をしていて山谷労働組合の委員長もしていた。ところが40代の半ばで病気になって実家に帰って来たが実家にいる兄がなかなか仕事につかない宮下さんを見て

『働かない奴は出て行け』

と頭ごなしに怒鳴った。

そういう見下した兄の言い方に腹がたち、それ以来実家に帰らず、もう10年以上町中をうろうろ歩きながらホームレスをしている』

ということでした。

 そんなことでジャンバーは受け取ってもらえなかったのですが

『宮下さん。それじゃあ学習塾のトイレ掃除をしてくれないかな。一回500円出すから』

と持ちかけると、一挙に明るい顔になって

『そういうんだったら喜んで毎日でもやるよ』

と言ってちょくちょく掃除に来てくれるようになりました。

 以上、第二話は宮下さんの『俺は乞食じゃねえ』と言う怒りと、お兄さんの頭ごなしの言葉への怒りを記しました。

そして

『なぜ、こうした人から憐れまれたり、見下されたりする言葉に宮下さんがあれほど激しく反応するのか』

ということを考えるました。

その理由は、おそらく15歳で故郷を出て集団就職をして東京の工場で働いたり日雇い労働者として働いている時に周りの人から心ない蔑んだ言葉を投げかけられたことが度々あって、それが原因ではないかなと思いました。

そういった言葉で受けた心の傷が、私やお兄さんの態度や言葉で蘇ったのではないだろうかなと。

どんなにボロボロの服を着てビニール袋を山のようにぶら下げて歩いていようとも

『あんたもオレも同じ命なんだ。それだけは譲れない』

という思いを住む家を失くしても持ち続けていた、と。

 

インテリホームレスの宮下さん 第一話

【第一話 茶碗一杯の白湯が最高のごちそう】

 

宮下さんと会ったのはもう30年近く前になるだろうか。

忘れがたい思い出である。

その頃私は学習塾をしており毎日仕事が終わるのが夜の9時であった。

5時から6時が小学生クラス。6時から7時が中1クラス。7時から8時が中2クラス。8時から9時が中3クラス。

ということで4時間のやんちゃで元気な小中学生の英語数学クラスを終えて、少しの疲れを覚えつつもホッとすると、しばらくして教室のドアがガラガラと開いて、宮下さんが現れる。

『お湯を一杯くれや』と言って毎晩現れるのがインテリホームレスの宮下さんだった。

『お湯じゃなくてお茶でもどうだい』と言うと

『お湯が一番ごちそうなんだ、図書館ではトイレや水道はあるんだけど、あったかいお湯が飲めねえんだな。』というので、毎晩お湯を一杯ご馳走していた。

この『お湯が一番のご馳走』という言葉は生まれて初めて聞いた言葉でびっくりしてしまった。確かにホームレスにとってはお湯を沸かすということは非常に困難なことなんだろうと思ったが、茶碗一杯の白湯で満足できる人生は幸せなのかもしれないとも思った.

 さて宮下さんは昼間は每日町の図書館で本や新聞を読んで過ごし、閉館になると近くのスーパーマーケットで廃棄された弁当を見つけて夕食を食べ、その後お湯を一杯飲みたいということで9時までは塾の教室の近くのやぶの中でずっと隠れていて生徒がいなくなってから律儀に必ず10分ほど経ってから現れるのだった。

『俺えみえてのがきちゃ評判落ちるから、みんないなくなってから来てるんだよ』と気遣いのある宮下さんは言っていた。

とても細かい気遣いのある人だった。

『何が1番怖いかって、そりゃ小学生だよ。大人は道で俺を見ても石を投げないけど小学生は 乞食!乞食! と言って追いかけて来て石を投げるからね。子供がいると俺は藪の中に隠れるんだよ』と言っていたが宮下さんが隠れると気配まで消せるほど完全に隠れる名人であった。

そして毎晩その一杯のお湯を飲みながらその日図書館で読んだ本や新聞記事などを私に紹介してくれた。驚いたことには文章だけでなく細かな数字まで全部暗記していて私に教えてくれた.

 なんでこんなに頭がいいのに仕事をしないんだろうかとは思ったが,それを聞くのも悪いと思っていつも黙って聞いていた。それから、その日の求人欄を読んで暗記していて私に言うのだった。

 『この塾は最近生徒が減ってるじゃない。こういう求人があったからここに再就職したらどうだい』と私に勧めてくる。

『こんな塾をやってるより収入は2倍もらえるんじゃないかい。あんたには奥さんも子供も3人もいるんだから』と生活の心配までしてくれる。

そこでいつも私が

『宮下さんよ。俺の心配より自分の心配したらどうだ』

と笑いながら言うと言うと『へへへへ』と言って笑って黙ってしまう。

まあ、こんな話を毎晩繰り返して15分ほど経つと『じゃあ。おやすみ』と言って帰って行く。

いったい家のない宮下さんが何処に帰っていくのか不思議に思って尋ねるのだがなかなか教えてくれない。

それでも1年ほど経ってから

『いったい夜どこで寝てるの』と聞くと『へへへへ』と笑いながら

『あの山の麓にある防空壕の中で寝てるんだよ。』と教えてくれた.

第二次世界大戦中の防空壕がまだ残っていたんだ。これにはびっくりした。

こんな感じで毎晩一杯のお湯を片手に笑いながら話をしていたのだが

『一体宮下さんはお風呂はどうしているんだろうか?』

『一体なぜホームレスになったんだろうか?』

『一体こんな冷え込みマイナス10°cにもなる時に防空壕でどうして生きていられるのだろうか?』

と疑問が次々と湧いてきた。しかし、なかなか聞いても笑っているだけで答えてくれなくて,それらを聞き出すのには数年の月日を要した.

それについては、面白い答えが返ってきたので、また、そのうち、ぼちぼちと書いていきたいと思う。

宮下さんはもう10年程前に天に召されたのだが,こんなことを書いていることを知ったら『へへへ』と笑いながら、防空壕のある山に向かって歩いて行ってしまうような気がする。夏の日も冬の日も陽気で軽快な足取りで歩いていた。

 

日本の民主主義教育の失敗の原因

日本に民主主義というものが根付かない。いつまでたっても日本の政治はまるでヤクザの親分争いをやっている。

政治家は利益集団の代弁者であって日本社会全体を考えて行動ができない。

それに対してたくさんの社会科学者やまたジャーナリストは日本の政治を批判し民主的な手続きで政治が行われるために熱心に努力してきたが日本の政治はますます悪化するばかり。

なぜ民主主義のために努力してきた社会科学者やジャーナリストや教育者の努力は報われなかったのか。

私はその原因は社会科学者やジャーナリストにとっての社会という概念は西洋的な個人を基盤とした上に成立している概念であるのに対して政治家や日本人一般の抱いている社会という概念は人間関係を意味しているからではないかと考えます。

そもそも日本社会には社会という経験は存在せず明治維新以後ソサイアティという言葉に対して社会という翻訳を作りし出したわけです。

日本人の経験の中には個人を基盤とした共同体という概念は存在しなかったわけです.

ですから戦後民主主義社会を作ると言って民主主義という言葉をいくら教育で教えても民主主義社会というものは上から教え込まれるのでなく日本人の個人の確立と日々の社会生活に中から形成されなければ生まれて育つものではなかったのではないでしょうか。

つまり日本の民主主義教育は2階建てであった。二階では社会科学者やジャーナリストが西洋的な意味での社会を議論する一方、一階では政治家や国民が日本的な意味での社会を考え一階と二階の間に行き来がない。1階から見ると2階の先生方は立派なことを言ってるが現実にはそぐわない。政治家は一般国民に投票してもらわなければ当選できないわけで当然人間関係利害関係上での社会ということを考えて国民に訴え政治を行う。

 

テスト

今日このブログのタイトルを変更して1日一話としたしかしアップすると昔のタイトルが出てきてしまうこともあるのでしばらくテストを繰り返していこうと思う。
写真をアップしようとしたが上記のようにうまくいかなかった以上

ある帰国子女の悩み

もう20年以上前のある日のこと。一人の中学1年生になったばかりの女の子が私の経営している英語塾を訪ねてきました。彼女の希望はアメリカ人講師との一対一の個人指導でした.私は一対一の個人指導は料金が高いので大人数のクラスもありますよ、と言いましたが彼女はどうしても一対一の個人指導クラスに入りたいと言います.

そこでその理由を聞くと生まれてから小学校6年までお父さんの仕事の関係でアメリカの小学校に通っていたということでした。それで帰国して地元の中学校に入って英語クラスに出て先生に指名されて教科書を読んだらクラスのみんなからクスクス笑われたというのです.それは中学校の先生が教えている日本式の発音ではなくてアメリカの本場の発音で読んだので生徒達がびっくりした反応でした.それがショックで彼女はそれ以来学校では日本式発音で教科書を読むようにしているので週に1回ぐらい自分の慣れ親しんでいるアメリカで習った発音でアメリカ人講師と思いっきり話したいというのが彼女の希望でした。皆と違う正しい発音で読むと笑われるという日本の英語のクラス。そしてみんなに合わせないと周りとうまくやっていけないと言う恐怖。この異質なものを排除するという雰囲気。

これは大人社会だけではなく子ども社会にもすっかり当てはまるのだなあと思いました。